日本料理をおいしく食べるためには選択してはいけない?

前に、NHKでやっていた、シーナアイエンガー教授の白熱教室が面白かった。この先生の声が独特の声で、しかも話し方のテンポ、間の取り方、ジョーク、生徒とのやり取りの優しさ、パワーポイントの使い方、とにかく話に聞き入ってしまう素晴らしさであった。徳の高い方だとお見受けした。このDVD買いたい。

 

NHK DVD コロンビア白熱教室 DVD BOX

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これを見た後に、このTEDトークを見た。これも面白かった。

シ―ナ・アイアンガ―: 選択術 | Talk Video | TED.com

 
さて。このTEDの中で、最初のつかみのネタが、東京に来て、緑茶に砂糖を入れようとしたが、うちの店には砂糖は置いてございませんと断られる、というものである。
 日本到着の1日目 レストランに入り“砂糖入り”の緑茶をオーダーした。 ウェイターが一瞬戸惑い 言いました “緑茶に砂糖は入れません” “その習慣は知っていますが 甘い緑茶が好きなんです” 前よりも礼儀正しい口調で 同じことを言われました “緑茶には… 砂糖を入れませんので…” “日本人が無糖で飲むのは 十分存じていますが わたくしは 砂糖を入れるんです” (会場の笑い声) 私がしつこいので 彼は困って 店長のもとへ すると間もなく 彼らは長い話し合いをし 最終的に店長が謝りに来ました “あいにく 砂糖がございません...” (会場の笑い声) 私好みの緑茶がないので コーヒーを頼みました すぐさま コーヒーが運ばれ そこで見たのは 2袋の砂糖! 
このやりとりは出席しているアメリカ人*1にどっかんどっかんウケるのだが、私は全然笑えなかった。私はiPhoneを見つめながら、顔を赤くして、ちがうちがう!と思っていた。恥ずかしかったし、腹も立った。教授は最初この、とても日本的なエピソードを取り上げて、アメリカ人寄りの感覚から話を始めていく。「Japがまた上司に意見聞いてるぜ!なにも自分で決められないのかよ、低俗な文化だな!ハン!」という観客の声が聞こえてきそうだ。でも教授の腕の見せ所はここからだ。がっつりとバックデータを持ってきて、各国の選択についての考え方を見せていく。最初はアメリカ人目線で、そして最後にはアメリカ人に「君の選択への考え方は、世界の中で別にスタンダードじゃないよ」というメッセージを伝える(まとめ方が雑ですみません)。日本に生まれ育って、なんとなく西洋のやり方にコンプレックスを持つ私にはとても勇気の出るトークだった。
私は緑茶に砂糖をつけてあげられるだろうか。
こう思う人もいるかもしれない。「いや、砂糖ぐらいつけてあげたらいいじゃん、他の国では緑茶に砂糖は普通だし、私だったらそうするよ。店長に聞いたりしないよ。その店員が知らなかっただけでしょ?」そう、私も思った。でも、ちょっと想像してほしい。教授がその時頼んでいたのが「焼きそば」に「砂糖」だったら?たとえば「薄味の野菜の煮物」に「ケチャップとマスタード」だったら?対応はさておき、少なくともとてもびっくりすると思う。(ちなみに私はラオスで焼きそばにグラニュー糖をわっさわっさとかける現地の人を見て、ぶったまげた)そして、もし、出してあげたとしても「あの外国人は日本食のおいしさを何もわからずに帰っちゃうなんて、日本に来た意味あるのかな。なんか悲しいなー」と思っちゃうな、たぶん。
「あなたの作ったものは絶対においしいって信じてるし、作ってもらって感謝してるし、信頼してるから絶対文句言わない」
いつも楽しみにしているほぼ日の連載がある。
このなかで、筆者のサカキさんは高級すき焼き屋さんにいく。
ほどよく熱が入った肉を、
玉子をほぐしたお椀の中に
そっとやさしく寝かせるようにのせ、
お待たせしましたと、一人ひとりに手渡していく。
ボクらはそれをただ食べるだけ。
肉も野菜も、豆腐もすべて料理されたものをどうぞと‥‥。
まるで厨房が食卓に出張してきたみたいなさまに、
あぁ、これがもてなしだなぁ‥‥、と一同感心。
鍋という、自分の好きに味わうことが許された
鷹揚にして自由な料理までもがこうして
「命令形」になるのが、上等な日本料理の世界なのです。
料理そのものが上等と、
昔から思われているのが「にぎり寿司」。
作り手が仕組んだ「分量」「食べ方」「味」を
そのまま食べる他ない
極めて命令形的な料理が寿司で、
せいぜい、食べ手に許されるのは、どんなネタを選ぶのか。
醤油をどれほどつけるのか‥‥、
という程度の自由が残されているだけ。
それも上等なお店に行けば、お任せというスタイルで、
食べるネタの種類も順もお店が決める。
中にはすべての寿司にあらかじめ、
醤油や煮切り、ポン酢や塩をほどこし
提供してくるお店もあって、
それらは「命令形の最上級」な料理を
提供しているんだというコトに、なるのでしょうね。
日本のもてなしは命令系だ。その考え方にはびっくりした。でも考えてみれば、うちの家では夜ご飯に納豆や卵なんかの食卓に並んでいないものを取り出して食べようとすると、「私が作った料理では間に合わないみたいで失礼だ」母から怒られた。基本的に、日本の料理で味付けがされているものに追加でしょうゆをかけたりすることは、失礼だという認識がある。だから、気づかいと称して「薄かったらしょうゆ足してね」等と言ったりする。これは気づかいではなくて、許可じゃんよ…。
なんというか、食べる人は食べさせる人に対して「あなたの作ったものは絶対においしいって信じてるし、作ってもらって感謝してるし、信頼してるから絶対文句言わない」と思わざるを得ない料理。そして、食べさせる人が「最大限努力してるんだから、文句言わないのが約束よ」それが日本料理ということか。食べさせる人がすべての責任を負うのである。家庭料理でも、結婚して奥さんの味噌汁がまずくて「これ、まずいよ…」と言ったら二度とみそ汁が出てこなくなった。とかいう話も聞く。もしこれ、日本が食卓に味噌とだしの素とわかめとめんつゆが置いてあって好きなだけ使っていい文化だったら、そんな悲劇は起きなかったよね、きっと。
「君がおいしく食べてくれるって信じてるよ、だから自分の選択に責任もってね。」
サカキさんの記事をまたも引用させてもらう。

西洋料理は一皿の上のいろんな味が
混じりあうことをたのしむ料理。
さまざまな色の絵の具が、重なりあって混ざり合い
独特の色合いを生む、
油絵のような料理といえば言えなくもない。
隣り合う色どうしが混ざり合わぬよう、
輪郭線を引くことで
キッパリとした色の世界をつくりだす
日本画のような日本料理とはまるで違った世界観。

ナイフフォークで切り分けながら食べるというのも、
西洋料理ならではで、
同じマグロを焼いたものも、
小さく舌にのせるように味わうときと、
大きめに切り、顎と奥歯で味わうときでは、
味や食感の印象がまるで違って感じられる。
西洋料理はキッチンの中で調理が終わらぬ料理でもある。
ナイフフォークは小さな調理道具。
料理はテーブルの上で完成品になっていく‥‥、
つまり、調理人は食べ手と協力しながら
料理を完成させることになるわけで、
料理が非凡で驚きに満ちたモノになるのか、
凡庸なただの料理になってしまうのか、
最後の調理人であるお客様にゆだねられている。
 アイルランドで2週間ホームステイしながら、語学学校に通っていたことがある。その、ホームステイ先のごはんは残念ながら美味しくなかった。野菜は歯触りとかいう概念がないほどいつもクタクタで、味はなく、塩と胡椒で各自好きに食べるスタイル。唯一気に入ったのはサンドイッチ。レストランでサンドイッチを頼むと、パンは焼く?焼くなら中身挟んだままホットサンドにする?オープンサンドにもできるよ、などと、どこに行っても細かく聞かれた。街にはいっぱいサンドイッチ屋さんがあって、サブウェイのような感じで具やパンを選べる。食べる人の好みにとことん寄り添うのだった。日本にはおにぎり屋さんがあっても、焼きおにぎりというオプションは選べない。焼きおにぎりは焼きおにぎりを注文しないといけない。筋子のおにぎり焼いてください、海苔なしで、という注文はなしだと思う。
選ぶということは責任を持つということだ。だから、選べるというのは、「それは私が選んだんだから、美味しくなかったとしてもちょっとは私にも責任あるよね」ということにもなり、「私はベストを尽くしてあなたのリクエストに応えたから、後はあなたが美味しく食べてくれることを信じてるよ」ということでもある。どこまでも自己責任の世界だ。
 どっちがいいとか悪いとかじゃなくてさ
別に私は日本をDisっているわけではない。どんな文化も一長一短だもん。日本の家庭料理がバリエーション豊かでおいしいのは、たぶん、作る人がごはんの責任を一手に背負っているっていうのも少しはあると思うし。相手に選択権を与えない=ゴハンがおいしくないのは全部作る人のせいになる=作る人はゴハンはおいしく作らなければならない。そういうプレッシャーはあると思うなあ。後は、誰かの選択を引き受けるっていうのは日本人なりの優しさや信頼の表し方でもあるんじゃないかな。選択することって結構しんどいことだし、ストレスのかかることでもある。それを誰かが引き受けて、これがおいしいんだよ、まあ、何にも言わずに食えよっていうのは相手のそういうストレスごと引き受けて責任を持つってことだもん。人のせいにできるっていうのは楽なもんだよ。楽させるのも優しさで信頼のあかしなら、選択させることも優しさと信頼のあかし。どっちが悪いなんて私には判断できないや。
ま、でも、いつも頑張ってご飯作ってる人たちは、たまには気を抜いて、ゆで過ぎ野菜に塩コショウどーんと置いて「グローバルスタイル!」とかてきとー言ってもいいんじゃないかな。あと、いろんな国があって、いろんなご飯の食べ方があって、選べるということが重要って思う人がいるって覚えておくことも重要。自分たちの文化だけが高尚ってわけじゃない。
ちなみに、そのホームステイ先のゆで過ぎ野菜は一度に大量に作られて、最後にはミキサーにかけられてポタージュになります。そのポタージュはおいしかったっす。
 
おしまい。

*1:出席者はアメリカ人には限らないが、少なくとも教授はアメリカ人向けに喋っているように思えた。多分多数はアメリカ人で、そうでなくてもほとんどが西洋人かつ、かなりのインテリ層には間違いない