閉じるときはちゃんと閉じる

この年末年始はせっせと彼と彼のお母さんと東京観光していて、全く家でゆっくり出来なかったので、流石に今日は朝起きても気持ちがるんるんしていなかった。朝起きて、彼に、

今日は家に帰る。

と言ったら、快諾された。家に帰って、買ってきた助六寿司をばくばく食べて、ちょっと眠り、お雑煮を作って食べ、ぜんざいを作って食べ、正月成分をフル充電した。
 
彼のお母さんは全然日本語がわからないし、電車にも1人では乗れないので、彼はお母さんのホテルまで毎日送迎している。彼もかなりストレス過剰な状況だとは思うが、お母さんと全くケンカをしない。淡々と話し合い、母の願いを叶える。良い息子だ。(私がいるからなの?でも、私なら絶対ケンカするなあ…)
ただ、クリスマス以降ずっとお母さんと一緒にいて、流石の彼もかなり疲れたらしく昨夜はごはんの後あまり喋らず、あまりいちゃいちゃもして来ず、たまに寝て、おもむろに起きてはゲームを始め、静かに閉じていた。(ゲームを始めるときも、もう1ゲームするにあたっても、必ずいいかな?と私に聞いてから開始して、オンラインでどっかの誰かと一緒に遊んでいるところは彼らしい。)たまに私の方を振り向いてにこにこして、また、ゲームの世界に戻っていく。私はほんのりさみしかったが、ああ、これが彼の閉じ方か、と思って、私も静かに村木厚子さんの本を読みながらそのまま寝てしまった。
誰かが閉じているときに、他の人はあれこれ手だしは出来ない。彼だけが彼を本質的に癒せる。ほんのりさみしいことではあるけど。彼も私も相手のそれを邪魔しない。彼にとってのゲームは、私にとっては読むことであり、書くことだ。もし、それを取り上げられたり、責められたり、軽視されたら、私が私でなくなってしまうような気がする。私はゲームをしないし、その良さはあまり理解できないけど、責めたり取り上げたりすることはしたくないなあ、と思う。それも含めて彼なのだ。いつか、それを続けられなくなる日も来るだろうけれど、それは自分の意思であってほしい。
 
 今でこそ、そろそろ閉じたいなあ、というのがわかるし、どうすればいいのかもわかる。他の人がどうやって閉じているのか、人が閉じているときに、どうしているのがいいのか、自分なりに答えが出た。でも、前はそれが全然わからなかった。人はいつでも開いていなければならない、と思っていて、すぐに開けなくなってしまう自分のことが嫌いだった。ずっとそのことを責めていた。すぐに機嫌が悪くなる私のことを、自分自身うまく把握できなかった。
その仕組みはシンプルなことだ。疲れる→普段出来ていたことができなくなる→イライラ、機嫌が悪くなる→機嫌の悪い自分に落ち込む→これではいかんと頑張る→さらに疲れる→イライラする→…ループ…
当時の私は機嫌を悪くすることで閉じていた。周りの優しい人はそんな私のことをそっとしておいてくれたのだが、私は、なんで周りの人はこんなに私が辛いのに何にもしてくれないの?と思っていた。周りの人にしてみれば、いきなり機嫌が悪くなってあたられるなんて、災難以外の何物でもない。私自身もなぜなんだか理解できてなかった。とにかく辛かった。
でも、自分自身が刺激にあまり強くなくてすぐに疲れてしまうこと、でも疲れたら休んで閉じればいいこと、がわかってからは、これで機嫌を悪くせずに済むんだ!とずいぶん楽になった。機嫌を悪くするということは結構体力を使うし、そこから機嫌を良くするのもかなりのエネルギーが必要だ。今でも、このやり方は自分に甘すぎるんじゃないかとも思うけれど、でも、自分が機嫌よくいられることがまずは基本だなあと思うので、とりあえず、今の自分には許してある。 
 
疲れたときに休む、というのは私にとってはびっくり大発見だったが、(それまでのパターンは疲れたときには機嫌を悪くするだった)周りを見渡すと、皆、普通に閉じていたんだなとわかった。閉じることが必要のない人もいることも分かってきた。社交的になることで元気が回復する人もいるし、スポーツの人もいるし、ゲームの人もいる。だから、私のように、じっと一人で家にこもって、何やら書いたり読んだりすることは、人と騒ぐことで元気回復することと大差ないということが分かった。
 
ものすごく端的に言うと、人はそれぞれでいろんなひとがいる、ということなのだが、私はそれがわかるのにゆうに30年もかかった。分かり切ってはいないのだろうけど、それを自分の中に認めたとたんに、ずいぶん楽になった。周りの人は皆これを息をするかのように自然にやっていように見える。どうやってこのことを分かったんだろう…。まあ、私は私のペースで、自分でわかっていくことが一番重要なので、まあゆっくりやればいいやと思っている。
 
なんだかまとまらないけど今日はここでおしまい。