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夢や目標なんかなくてもいい。まずは第3の手を育てるところから。

今日は夢とか希望とか目標の話をすることにする。

結論から言うと、夢とか目標とか、別になくていいよ、それは一種の宗教だから。まずは、そんなの持つ前に、今日を生きた自分の頭をなでなですることだよ!ということだ。

人の夢や希望の話が辛かった 

本当に精神的にまいっていたときに、一番しんどかったのは、人の夢とか目標とか希望の話を聞くことだった。明日のこともよく考えられない、さらに、追い詰められているのに、自分自身でもそのことに気づいてなかったとき、「夢を持てば」とか「目標があれば」とか言われると、本当に泣きたくなった。夢を持てない自分、目標もなく、それに向けて頑張ることもできない自分、それは本当に情けなかった。

そのころに、いろいろ読んでいて、どこかの記事で「別に大きな夢や目標を持つことだけが、幸せに生きる道じゃない。何かを目指して、進む幸せあれば、その日その日を楽しく過ごす、その日々をひとつずつ積み重ねる幸せだってある。」という記事を読んで目からうろこがボロボロ落ちた。いや、目から落ちたのは鱗じゃなくて液体だったかもしれない。その時ようやく、夢や目標は持たなくたっていいということに気付いた。人を幸せにすると皆が言っていた夢や目標という言葉に、私はひたすら追い詰められていたのだった。

夢や目標はある意味宗教。入りたい人だけ入信すればいい。

もちろん、持ちたくて持って頑張って動いてる人はまぶしく輝いている。尊い。夢や目標があって頑張るっていうのは、とっても気持ちいいし、”自分にもできるんだからきっとあなたにも”とか思っちゃうのも分かる。やっぱりそういう夢や目標を持って努力できちゃう人たちは、とってもアウトゴーイングで’基本的自尊心’を持ってる人が多いから、周りの人にも無邪気に声高にお勧めしちゃうってのはあると思う。それはそれでいいんだ、現に多くの人が励まされているだろうし。

でも、そういう”手帳にゴールを書こう!”とか、”なりたい自分になろう”とか、”好きを仕事に”とか、そういうのって、なんだかとっても人を焦らせる言葉だなと思う。心が弱ってる時にそういう言葉を聞くと”手帳にゴールが書けないやつはダメ”とか、”なりたい自分になれないやつは存在価値なし”とか、”好きじゃない仕事は仕事じゃねえ、無駄な人生”とかそういう風に響くこともある。まあ、お察しの通り、かつての私のことなんだけど。毎度すみません。

本当に正しいことって、正しい分、皆無邪気に大声で主張するもんだから、すごく刺さる。それでさ、正しいから、言い返すこともできない。ほんと、宗教みたいなもんだと思う。確かに、目標や夢があることは良いことだとは思うけれど、別に、ないことが悪いわけでもない。でも、それがわかんないんだなあ…。

まずは、一日を積み重ねて3本目の手を育てよう。

 別に夢や目標なんかなくったって、一日を過ごすことはできる。とりあえず、朝ベッドから身体をひっぺがして、会社に行って、座ってる。それでいい。もっと辛ければ、目を開ける、ご飯を食べる、薬を飲む、とかそれでもいいと思う。それができた自分をきちんと認める。できなかったことを数えるよりも、できたことの方をまずは認めることから、だと思う。そうやって、自分ができていることを認めていくと、少しずつできることが増えていくこともある。もちろん減る日もあるけど。

そうやって過ごしていると、ほんの少しずつ、自分の3本目の手が育っていく。その手は普段私の背中を触っている。その手は、たまに誰かに親切をすれば頭を撫でてくれて、怖くなったら背中をさすってくれるようになる。迷ったらぎゅっと背中を押し、サボったらお尻を叩く。その手は常に私に寄り添い、そばに居てくれる。私は、その手こそが基本的自尊心だと思う。私の仲間の脳内には「ビューネくん」がいるらしいが、それは私の3本目の手と同じものだろうと思う。

先のことが考えられる日がやってくる。

それを根気づよくトレーニングしていくと、ちょっと先のことを考えられる余裕が出てくる。先のこと、そう、それが大げさに言えば夢で目標なのだ。ちょっと先のこと、もう少し先のこと、そうやっているうちに、自分の目標を自分が叶えられる、かも?くらいには思う日が増えてくる。自分のアイデアを形にできる…ような気がする。たまに。とりあえず、そういう風に先のことを考えたくなった自分を3本目の手がなでなでしてくれる。それって、それだけでわりと幸せなことだと、私は思う。もちろん、先のことなんて、考えられなくっても、今日あなたがここに生きた、まずはそれをなでなでしてやってほしい。まずは、そこからだと思う。

 

うまく書けないけど、今日はこれで

おしまい