誰かの一番になりたかった

誰かの一番になりたいんすよ。

 
数年前、私は出張帰りで、静岡駅近くの居酒屋に当時静岡在住だった先輩を呼び出してぼやいていた。前の彼氏と別れて結構経っていた。けど、私はまだそのことを引きずっていた。仲間と話す、集まって遊ぶ。でも、私はその仲間にとっての一番じゃない。彼らの一番には絶対なれない。そのことがしみじみと悲しかった。私だって考えてみれば、その仲間が絶対の一番だなんてやっぱり言えないわけなのに、私は誰かの一番になりたかった。
 
私は前の彼氏の事を心の底から信頼していた、とその当時思っていた。一番だったと思っていた。だから、その人がいなくなって、私は誰の一番でもなくなってしまった。そして、私の一番がなくなってしまったと思った。その喪失感は大きく、なかなか埋まらなかった。
 
今考えれば、私は前の彼氏に依存していただけだった。勝手に彼のことを崇めて、理想化して、その理想的な男に好かれている事で自分自身の価値を正当化していた。単純に考えれば彼は普通の男だった。ずるいところも誠実じゃないところもあった。誰にでもある、どうしようもないところもあった。でも、私はそういうところを認めず抹消していた。勝手に理想化して、勝手に我慢していた。こんなに我慢してるんだから、いつか報われるだろう(主に結婚という形で)と思っていた。私でもこんなにステキな人と結婚できるんだ!夢みたい!乙女な夢を炸裂させていた。
今考えれば、私は彼を一番に思ってなかった。そして、私は彼の一番でもなかった。お互いに自分が一番だった。
 
なんのことはない、いつだって誰だって自分が一番なのだ。それに気がつかないまま、人の一番になることを切望したり、誰かを自分の一番にしてしまう。それはただの錯覚だと私は思う。私は自分の価値を自分で全然認められていなかった。生きていていいと思えてなかった。だけど、誰かのためになら生きられると思った。自分が生きていることを誰かのせいにしたかったのだ。自分で自分を背負えてなかった。誰かの一番、という価値だけが欲しかった。
 
自分を自分の一番にするということは、自分を自分で背負うということだと思う。つまり、自分の人生に責任を持つということ。誰かに委ねたりせずに、自分で自分を管理し、励まし、許し、叱り、なりたい自分になることだ。それは、人の一番になることで得られるべったりとした寂しさのある優越感とはまったく異なる。足元のすーすーするような孤独感と一緒に、清々しい安心感を感じられる。
 
いま、それが本当にできているかわからない。今の彼を失うことだってもちろん怖い気持ちはあるけれど、私の気持ちがないがしろにされたり、我慢をしたりするくらいならしがみついたりしなくていい、と思う。今のところ、そう感じたことはないから、まだ一緒にいたいと思う。
私は自分を一番に大切にできる人でいたい。それが周りに一番迷惑をかけない生き方だと思うから。そうやって一人で立って、その上で誰かと生きていきたいと思う。
 
おしまい