他人は鏡

「他人は鏡」という言葉を小さい時によく母に聞いたのだが、最近になって、まさにそうだなあ、と思うことが増えた。最初にその言葉を聞いたときは他人が自分の鏡になるはずないじゃん、違う人間なんだから。と思ったが、どうもそういうことではないらしい。

相手がいて、その相手が何かをするときに、自分の中にいろんな感情が生まれる。楽しくなったりうれしくなったり、悲しくなったりイライラしたりする。その感情は、すべて自分自身のもので、その根底には自分自身の価値観がある。好ましいと思うもの、嫌なもの。一人でいるときにはその価値観のみで動いているのだから、何も問題は起きないが、誰かと相対したときに初めて、いろいろな自分の反応が起きる。その反応こそが「他人は鏡」ということなのだと、今の私は考えている。

Aさんの話

昨日まで北海道の夏フェスに参加していたのだが、同行した大学時代の仲間の友達、Aさんの言葉に時々イライラしていた。誰かが何かを言うと、必ずAさんが「私は知ってたし」「当然だよね」「本当はそうじゃないし」のような言葉を返してくるのに私は反応していた。上から目線で、は何でも知っている、という風に感じて、嫌な気持ちになったのだった。これは私の中にある「誰かと戦って勝たなきゃ」という価値観を刺激していた。私は、あーそういう価値観が私の中にあったのね。でもまあ、戦う必要もなければ、勝つ必要もないよね、と思った。

加えてAさんは、自分のことしか話をしなかった。私が何を言っても、Aさんは「私はこう」としか言わないのである。私もそっかー、そうなんだ。としか答えられず、どんどん相手の話を聞くのが面倒になってきて、へー、ほーとしか相槌を打たなくなり 、終いには反応すらしなくなった。私は自分の「人の話をよく聞いて、掘り下げて理解しあうことが大切」という価値観をまたAさんから教えてもらったのだった。教えてもらったなんて気持ち悪い表現だけど。

Aさんは才女で自分の能力を自分で認められる人だし、意志はあり自分で自分のことを決めて自立して行動できる。気分は安定して落ち着いているし、人をむやみに傷つけたりする人ではない。自分の好きなものを好きと言え、新しいものにもアンテナをどんどん伸ばす。そういういいところ、つまり私にとってステキ、と思えるところもある。

たぶん、私はAさんと個人的に連絡を取ったり、遊びに行ったりすることはない。年に1度、その時に合う仲間。それでよいのである。いいところ(と私が感じるところ)と嫌だなあ(と私が感じるところ)がある、ただそれだけのことである。

人は見たいものを見る

結局、何があっても、自分の感じ方は自分のもので、相手のせいじゃない。ただ、感じ方やそれに紐づけられた価値観は相手がいないとわからない。これが他人は鏡ということだ。もう少しだけ掘り下げると、Aさんの中にあるいいところも嫌なところも、私の中にすでにあるものだということ。人は自分の見たいものを見るのだから、見えているものはすべて自分の見たいもの、自分の中にあるものだと、私は思っている。

 

おしまい