読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小林一三→阪急少年音楽隊→父 の話

この間、救世済民の男、小林一三を見た。いいドラマだった。なんの前情報もなく見てたけど、宝塚を作ったあたりで、あれ?ん?これもしかして、と思って調べたらやっぱり。阪急百貨店を作った人だったんだ。そして、私の頭の中にばばーんと、「阪急少年音楽隊」の文字が。ルーツはこの人だったんだ…。
阪急少年音楽隊は私の父が入っていた楽団である。中学校を出た父は、すぐに入隊して、チューバという、金管の中では最も大きい低音楽器の担当をしていた。ユーチューブでステージの映像を見るに、当時の音楽隊の中では花形楽器だったのではと思う。その頃の父を写真で見たことがあるが、いい笑顔で笑う気の良さそうな青年だった。わりとイケメン。
その音楽隊は阪急百貨店の宣伝のために設立されて、幹部候補生を育てるための機関だったらしい。その後、商業高校になり、現在は他の高校に移管されているが、今でも吹奏楽の世界ではトップクラスの実力を持っている。(向陽台高校→早稲田摂陵、現在は女子バンド) 世界初のステージマーチングを考案し、吹奏楽の世界ではセミプロで、人気もあったらしい。男だけのマーチングバンドって、一種独特のかっこよさがあるもんな。私がマーチングやってた頃、男子校バンドはファンが多かった。あと、多分父のいた頃は鈴木竹男さんという吹奏楽の世界では有名人に直接指導を受けていたのではと思う。スゴイ。
話を聞いたことないから全然知らないけど、多分いい青春だったのでは、と思うのだ。でも、父の中では、自分は高校を卒業していない、という思いが強かったようで、私たち兄妹には学をつけさせたがった。
元気だった頃の父は、私たちをよくオーケストラの演奏会に連れて行ってくれた。オシャレをして、ホールの大きさにびっくりしたのち、私はソッコーで寝てたけど、ああいう世界を知ることができたのは良い経験だった。
今でも音楽を好きなのは、私達兄妹がマーチングをかなり長く続けて、アメリカ遠征にまで行ったのは、紛れもなく父の影響だった。多分、私も兄も父に褒められたかったのだと思う。まあ当時、引きこもりのアル中オヤジに成り下がっていた父は大会を見に来てくれなかったけどね。
多分当時、宝塚劇場や西宮球場でたくさんの視線を集め、ラジオに出演し、来る日も来る日演奏のことばかり考えていたであろう父の若かりし日々を、遠く離れたバングラデシュから思うのであった。

おしまい