寂しいこと

昨日の記事に、子持ちの仲間と会うのが「寂しい」と書くのは結構勇気がいった。いい年した大人が、こどもたちにヤキモチかと。まあ、恥ずかしいが、実際そんな感じなのである。

専業主婦の仲間には特に、なんとも言えないモジャモジャした気持ちを持ってしまう。いつもお母さんがいていいな、大切にされていいな、お母さんが全てを与えてくれようとするなんていいな。もう私にはそんな大切な気持ちを注いでもらえないんだな。そんな気持ちがザワザワする。それをシンプルにしていくと寂しい、という気持ちに収束していく。

多分寂しいというのは、とても根源的な感情の一つだと思う。あかちゃんが最初に持つのは快不快だと言われるが、その次くらいに寂しいというのが来るんじゃないかと思う。保護者がいなくなった時に、保護者を呼ぶ、それが寂しさみたいな気持ちに発達するのでは、と思う。つまり、人間が生き抜くための、自分を守るための一つの機能としての寂しさである。

寂しさは人間にとってデフォルトだ。だから、自分の中に寂しさがあるのに怖がらなくていい。そう思っていても、自分の中にある寂しさをないことにしそうになる。寂しさっていうのは、恥ずかしい。そう認めると、大人の自分が急にみじめになったように思う。でも、寂しさを認めないでいると、無視された寂しさで、寂しさが大きく育っていく。恥ずかしいけど、自分の寂しさを認識してやると、その寂しさはひとつ巣立っていく気がする。

大人になると、寂しさは他人には埋められなくなる。小さい時にうまく埋められなかった寂しさを他人で埋めようとすると、自分の欲しい愛情が得られるまでもっともっとと思い、思うほど寂しさが膨らむ。相手は出しても出しても満足してもらえず、完璧を提供できないくて、嫌になる。自分でどうにかするしかない。勇気がいるけれど、自分の中に寂しさがあることを認識する。何度も何度も認識する。ああ、寂しさ、ある、と思う。それだけでいい。大切な人に自分が寂しいと伝えてみるのも、大きな昇華になる。それは自己肯定感を高める一つの大きなトレーニングになる。

さあら私もあの子持ち専業主婦のあの子に伝えてみるか、いや、やっぱり恥ずかしいな…

おしまい